小学生の時。
体育の授業で一輪車のテストがありました。
何メートル走れるか、っていう。
一人で乗れる子は一人で、でも、もし乗れなくても一人補助についてもらってもいいよ。てなテスト。
私はその時まだ一人では乗れませんでした。
誰かに手を持っててもらえればどこまでも走れたけれど、一人じゃ1mくらいしか進めなかった。
小学生の私は迷います。
「一人で走るべきか、誰かに補助してもらうべきか」
で。
全然乗れないけど、「一人で走る」
を選択。
案の定、全く進めなくて、すぐに一輪車から降りてしまいました。
結果は散々だったけど、チャレンジした自分は何だか誇らしかった。
だのにね、全員のテストが終わって先生から結果を聞いた私は、ビックリして酷く落胆するんです。
何故なら、
「全然進めなかったけど一人で頑張った私」より
「補助してもらって遠くまで進んだ子」の方が点数が良かったから。
↑この言い方、悪意があるよね。
でも、本当にそう思った。
補助付けたら私だってもっともっと遠くへ行けたよ!!
でもチャレンジしたんじゃんっ!!
って。
考えて見れば、テストの内容は
「何メートル走れるか」だったワケだから、
まぁ、そうなるわな。
補助ありでも良し。と言われてる時点で別にズルじゃないしね。
でも…でも…!!!
と、今でもたまにこの事を思い出すんです。
で、思うの。
「もしあの時、補助付けた方がいい点数もらえるってことを事前に知っていたとしら、私はどうしたかな。」って。
世の中には
「これ、どっちが正解?!」て事が沢山ある。
で、「正解」なんてものは、元々無かったり、
あってもそれは、時と場合によって180度変わったりする。
時に理不尽な事が「正解」になることもある。
なんて事を、ひとつひとつ学んでいく。
さて、先ほどの質問。
今日の私はこう思います。
「どっちでもいいよ。どっちが良くてどっちが悪いも無いんなら、どっちでもイイ。私が私に恥じる事の無い選択ならば。」
一月も終わり。
年度末に向かってまだまだ怒涛の日々が続きますが。
一年で一番短い月を、一日一日、少しずつ濃くすごせますように。
ごきげんよう。
体育の授業で一輪車のテストがありました。
何メートル走れるか、っていう。
一人で乗れる子は一人で、でも、もし乗れなくても一人補助についてもらってもいいよ。てなテスト。
私はその時まだ一人では乗れませんでした。
誰かに手を持っててもらえればどこまでも走れたけれど、一人じゃ1mくらいしか進めなかった。
小学生の私は迷います。
「一人で走るべきか、誰かに補助してもらうべきか」
で。
全然乗れないけど、「一人で走る」
を選択。
案の定、全く進めなくて、すぐに一輪車から降りてしまいました。
結果は散々だったけど、チャレンジした自分は何だか誇らしかった。
だのにね、全員のテストが終わって先生から結果を聞いた私は、ビックリして酷く落胆するんです。
何故なら、
「全然進めなかったけど一人で頑張った私」より
「補助してもらって遠くまで進んだ子」の方が点数が良かったから。
↑この言い方、悪意があるよね。
でも、本当にそう思った。
補助付けたら私だってもっともっと遠くへ行けたよ!!
でもチャレンジしたんじゃんっ!!
って。
考えて見れば、テストの内容は
「何メートル走れるか」だったワケだから、
まぁ、そうなるわな。
補助ありでも良し。と言われてる時点で別にズルじゃないしね。
でも…でも…!!!
と、今でもたまにこの事を思い出すんです。
で、思うの。
「もしあの時、補助付けた方がいい点数もらえるってことを事前に知っていたとしら、私はどうしたかな。」って。
世の中には
「これ、どっちが正解?!」て事が沢山ある。
で、「正解」なんてものは、元々無かったり、
あってもそれは、時と場合によって180度変わったりする。
時に理不尽な事が「正解」になることもある。
なんて事を、ひとつひとつ学んでいく。
さて、先ほどの質問。
今日の私はこう思います。
「どっちでもいいよ。どっちが良くてどっちが悪いも無いんなら、どっちでもイイ。私が私に恥じる事の無い選択ならば。」
一月も終わり。
年度末に向かってまだまだ怒涛の日々が続きますが。
一年で一番短い月を、一日一日、少しずつ濃くすごせますように。
ごきげんよう。
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